博多サットサンの様子

皆さん、こんにちは。

夏の全国ツアーが、7月の阿部さんとのコラボトークをはじめに、スタートしました。

8月初めに名古屋、先週末は、博多と行われました。

毎回、本当に沢山の方が遠いところからもきてくださり、ありがとうございました。

皆さんそれぞれに、いろいろ体感されたのではないでしょうか。☺️

2回のサットサンを終えて、リトリートはさらにパワフルなものになるのではないかと

ワクワクしています。

今週末はいよいよ大阪です。とても楽しみです!

ところで、以前にスピリチュアルTVで、海外のビデオに訳をつけて配信すると言うことをいったの

ですが、海外でもいろいろと忙しくなってしまって、訳ずけできないまま、夏のイベントがスター

トしてしまいました。

サイトに登録してくださった方,本当にゴメンナサイ。

その代わりと言ってはなんですが、そして、ほんの少しだけですが、先週末の博多の様子を少し

アップします。

また、近々、サプライズビデオも無料配信される予定です。これは、とってもスペシャルな内容な

ので、楽しみにしていてください!

 

with love

菜穂

 

 

 

22 thoughts on “博多サットサンの様子

  1. 津田浩子

    菜穂さん、動画配信ありがとうございます\(^o^)/

    来週、大阪ではじめてお会いできます。

    とっても楽しみにしています♪

    Reply
  2. Tetsuya

    福岡は前日に急遽行けなくなってしまいお会いすることができませんでした。
    残念。(>_<。)
    動画で少し様子が見れて嬉しかったです。
    ありがとうございます。
    いつ見てもキュートです。
    また福岡来てくださーい♪

    Reply
      1. 坂根恵理子

        菜穂さん(*^▽^*)大阪サットサンでお会いするのを楽しみにしています(^_-)-☆
        島根w恵理子でした!姉さんは天川さんです(*’▽’)

        Reply
  3. しんこ

    名古屋のサットサンに出席したものです。動画を見てもう、懐かしいです。本の中の質問ですが、菜穂のストーリーのところで「私以外の何かが」私はいなかったと気づいたということですが、それは何ですか?
    個人のエネルギーがなくなったのに気付きがあるって…個人のエネルギーのない菜穂さんにも違う気づきがまだまだ続くのでしょうか?

    Reply
  4. Aya Merrill

    菜穂さんこんにちは。映像のアップありがとうございました。日本でのツアー、とても楽しそうなのが伝わってきます。
    もし会場で同じような質問があったのなら重複してしまいますが、ここで1つうかがっても良いでしょうか。

    私としてはいちばん「自分だけに起きている」と思ってしまうのが、痛みです(特に肉体的な)。これは動物にもある感覚だと思うのですが、自分がなくなった状態でも「感覚」はあるわけですよね?解放された状態だと「痛み」がただ起きているので、「自分が痛い」という苦しみを感じる事がないということなのでしょうか。痛みを全く感じなかったらそれこそスーパーパワーですが、「痛っ!っていう感覚は起きるけど、それを感じる自分が存在しない」という事ですかね?私には想像しかできないのですが、これって解放前と解放後で全然違うものですか?

    Reply
  5. 悩みがなかなか溶けない登場人物

    菜穂さんこんにちは、今晩は?おはよーございます??

    自覚が無くとも、出来なくとも、肉体の痛みは、となりの人や、知らない人に起こっているわけではないでしょうから、やっぱり自分に起こっているんじゃないですか?

    私たちは、これは、夢だとか、ストーリーだとか、菜穂さんに習えば、そういう見方が、この人間の脳のおかげでできるのでしょうけど、

    でも、幾らかは、離れられても、この使っている肉体の感覚が各人消えることは、ありませんし、怪我をしたり、病気をしたら、その痛みや苦痛は、間違いなく、それを見たり、感じたりしている私の意識の側に向かって起こっている現象だと思います。

    その痛みや苦痛が、となりの人に感じられるわけでもなく、他人の感性の中に表れるわけでもないと思うのですが、

    それても、自分という全体からの、この一つの“知覚の方角”としの「私」に起こっているわけでもないと言われるのでしょうか?

    野生動物の世界でも、補食者捕らえられ、食べられる痛みが蔓延していますが、そのことをそれぞれの動物たちが“自分に起こっていることではない!”と自覚出来る脳がないから、我々のように、距離を置いて肉体の感覚や、苦痛を和らげられないのではないでしょうか?

    またその動物(肉体)の一つの感性を味わっている一つの方向の“意識”の前に、痛みや苦痛や、その他の感覚が表れていないとしたら、いったいどこの“意識”やそうじゃないものの前に“感じられる”ように表れているのでしょうか?

    Reply
  6. まりあ

    菜穂さん、質問があります。

    死ぬということは、すべての全体のエネルギーに戻っていくことだと思いますが
    その瞬間には、生きていた時のストーリーの記憶は消えてしまうのですか?
    4月に最愛の母が永眠しました。 個人の存在が無くなるということは
    娘の私のこと(私のエネルギー)も忘れてしまうということですか?

    Reply
    1. nahoowada

      はい。脳が泊まってしまうので、記憶は全部消えますよ。記憶は個人にとって、とても大切に感じますが、実際はその記憶がその時起きていることですよ。☺️

      Reply
  7. まりあ

    菜穂さん、返信をありがとうございました。

    やはりショックで悲しいです。母が、私を忘れてしまうなんて。
    でも、それが真実なのですね。 その時が来れば、同様に私も
    すべての記憶をなくして、全体のエネルギーに帰っていくのですから。

    改めて、死ぬと私たちはどうなっていくのですか?
    (本当は、生まれもしないし死にもしないと、菜穂さんはおっしゃってましたが)
    あ~ 混乱してきました。(笑)

    9月19日に、東京でお会いするのを楽しみにしています。
    with lots of love

    Reply
  8. Yoriko K

    菜穂さん
    大阪サットサンは、とっても楽しくて、大笑い続きで、あっという間に時が過ぎました。
    あれから一層 深刻さがなくなって、色んなことがおかしくて、特に菜穂さんの言葉を思い出すと笑いが止まらなくなっています。^^
    ありがとうございます☆

    お写真は、こちらの記事に掲載させていただきました。
    http://ameblo.jp/abha/entry-12063757268.html

    また お会いするのを楽しみにしています ☆^^☆

    Reply
  9. 久美子

    初めまして。
    私はむかしからスピリチャルなことに興味があり、このたび菜穂さんの著書とブログも全て読ませてもらいましたが、はっきり申し上げて、菜穂さんが仰ることが、一種のファンタジー話にしか聞こえず、これが今生きている私達の人生や生活にどう役立つのか全く理解できません。
    むしろ虚無感しか残りません。
    当たり前ですよね、「私はいない」とか「起こることは意味はない」とか言われるわけだし、そもそも「私はいない」を感じる私すらもいないわけだから、何か煙に巻かれたような気持ちという、馬鹿にされたような気持ちになってしまいます。
    だって、著書だって、講演会だって、お金を取られているわけだから、払ったからには、それなりの効果を求めるのは当然だと思います。

    それと、これは別に嫌味じゃありませんが、「私はいない」と言っている割には、随分とFacebookなどでお洒落に着飾った写真をたくさんアップしてますが、言っていることとのギャップを感じてしまいます。

    Reply
    1. nahoowada

      久美子さん、ここからのメッセージは、個人には理解できなく、個人が役にたてられるメッセージではありません。なぜなら、このメッセージは、個人に対して伝えているメッセージではないですから。ただ、あるがままの描写です。そして、このメッセージと現象としてのキャラクターや行動とは全く関係ないですよ。自分の幸せの先に何かを求められる準備ができていれば、ここで言っていることが聞こえてくるかもしれません。

      Reply
  10. よしべい

    こんなことをコメントするとまた探究に繋がるかも知れませんので、必要でなければ、現示して頂かなくとも結構なのですが、前のコメントを見まして衝動が起き、投稿しろとの判断が下されましたので、書きます。

    ★何かを見たとき、注目したとき、観たものに対する印象や評論が勝手に起こったりします、それをただ見ている者(知覚してる側)の前に、データが表示されるように表れますよね。感覚的にも、イメージ的にも、思考的にも、

    “それら”に対して例えば、意見を求められたら、「私は~」との衝動のような凝縮されたエネルギーが発生し始めますよね。

    しかし、この「私は~」と始まり出す凝縮した衝動・エネルギーの奥を辿っていくと、何も無いように感じられますし、

    更に、それを見ている者(知覚している側)を観てみますと、やっぱり中身は何も無いことが、その移り変わるように見える“私側”に意識を移して感じてみますと(知覚)してみますとそう感じられます。

    もちろん、この移り変わるような主体の“見る側”の、意識のセンターのポジション側)は常に同様に感じられます。

    何かを、気づいたことを、感じよう、よく見ようとして、内側でも、外側でも、内奥や、背後の方でも、

    その意識の“センターの”ポジションのシフト(移り変わり)が行われる様を、確認できるようになれば、それを感覚的に確認できるのではないでしょうか?

    ですが、この意識のセンター(感じる側)は、実は変わっていないようにみえます。

    愛ゆえ、全てであり、全感性であり、全知性であり、「私は~」たちが起こり、様々なハートや知性が表れ、なんて、イメージも表れます。

    これらは、全体の前に、いえ、全体の中で起こっている?だけ…とイメージが表れますが、それらが表れる前、気づきや意識が起こる以前が本当の私、「私」がいない、何もない私‥とのイメージが表れます。

    つくづくparadoxの繰り返しなのですが(本当はparadoxもない)、ほとんどの「私側」には、プラスや得といった感覚や認識をもたらさないかも知れません。

    そういう人たちにこそ、解放を理解し、それをも、超えているような、人生を素直に楽しんでらっしゃるような(呼称)菜穂さんをわかれば良いと思ったりもします。

    Reply

Leave a Reply to Aya Merrill Cancel reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

two × 1 =