Monthly Archives: March 2015

無時間

無時間の中に見かけ上の時間、過去と未来が現れる。

でも何時もあるのは、無時間の空間だけ。しかしいかにも、未来と過去が現実的に存在しているようにかんじられる。

それはどうして?

みんな自分はその身体(キャラクター)で、過去から未来へと時間の中を生きていると思っているから。

でも、よーくみると時間は想像の中にしか存在しない。つまり、時間が想像の中にしかなければ、自分も想像の中にしか存在しない???

では、本当の私は一体どこにいるの?

存在性としての(あなた)は、無時間の空間すべて。

私という檻

全ては既に完全に自由。

個人は、本当はすべてが自由なのに、私は自由でない。苦しいと感じている。。

それは、個人が自分と言う制限、檻があると信じきっているから。。。。

本当は、どこにも檻はないのに、自分で作り上げた想像のおりに縛り付けられていて、

いつも苦しい。

でも、個人はその檻が一番大切で、安全な場所だと思っているからどうしても手放せない。。。

本当は、檻も無ければ、自由も全く失っていないのに。。。

個人という想像の檻は、全体と言う自由の中の幻想の檻。

 

 

思考

思考は、言いたいことをいう。

これが問題だ。これを改善すれば良くなる。これを手に入れたい。どうすればいいのだろう?

やったー、うまく言った。自分が頑張ったからだ。あいつはこんなことをすべきでない。

これをしなければ良かった。ああすればきっとうまくいったのに。悟りをてにいれたい。

もっとこうしたい、ああしたい。。。。

それがどんな言葉であろうと、何も無いところから、涌いては消えていく、言葉。そして、そこには実際意味はない。

でも、幻想のわたしはこの思考を純粋に信じている。(実際は幻想なのでいないけど。。。。)

そして、思考の言葉に重要性、真実性が出てしまうのは、分離した小さな私を自分だと思い込み、感じているから。。。でも、どの思考も全く真実でないし、思考自体は何も知らない。。。。

思考自体に問題はなく、よくも悪くもない。ただ、涌いては消えていく、全体の表現。

この世に存在する他の全ての現象とおなじように。。。

 

世界中が求めていること。。。

世界中の人が求めていることは、すべて。ただそれだけ。

でも、それは わたし にはみつけられない。なぜなら、わたしは幻想だから。

幻想が消えたとき、全てが残る。。。。それはもうすでにあるすべて。

そして、このすべてが完全な愛。本当に求めている一つだけのこと。。。

とても密接で、境の無いすべて。。。身体の感覚、音、心臓の鼓動、椅子に座っている感覚すべてがただおきていて、本当は経験者はいない。。自分の意志で行動し、次の瞬間に向かって生きていると確信している 夢の世界の小さなわたし が全体にとけていったとき、すべてが無条件の愛だと自然と明らかになる。

お知らせ

わたしは、何時も頑張っている、とてもけなげな存在。。。

でも、何かがうまく行かないこと、苦しいことは ある意味おしらせ、そしてギフト。

求めていることは、そこにはないよ。というライフのおしらせ☆

いつか。。。

人は、沢山の望み、希望をもっている。

いつか、こうなったらいいなー。きっと、将来こうしよう!というように未来に何かを望んでいる。

夢を叶えたい。と夢の現実で更なる夢をみている。。。

でも、その いつか は どこにあるのだろう?

いつかは、いつもここ。そして、いつかどこにもない!いくら探してもみつからない。あるのは、これ だけ。。。

でも、不思議と実際は存在しない いつか が人生のメインの舞台になっている。。。

そして、この夢を見ている存在自体どこにもみつからない。。。

これは、まさに誰れにたいしてでもない、ライフの完璧なトリック!

ひとり

全体。ひとつの無時間のエネルギーがあるだけ。

だから、ある意味ひとり。自分も他人もない。

あるのは、どこまでもすべてだけ。

でも、これは寂しい一人ではない。孤独なひとりではない。一人が寂しいのは、自分が世界と分離した独立した存在、世界に比べて小さな存在だと感じるから。

何かがたりないから、他人の愛がすごく必要。。。

幻想のひとりは、ちょっと切ない夢の中。

全体のひとりは、満ちた無とすべて。。。。

見かけの表現

見かけ上起きていることは、常に変化し続けていて、とっておくことも、捕まっていられる安全な

場所もない。全てはなににもくっつかず、軽やかにすり抜けていく。

ただ、シンプルに、大胆に、自由にライフが表現しているだけ。。。

そして、どんなことも誰かに起きている訳ではない。

あなた、私、すべての分離も、本当は全く存在していない、見かけだけ。

すべてはライフの美しくときには切ないみかけの表現。♥︎

 

さとりはとても普通

さとりはとても普通。

素晴らしい目覚めの経験でも、その先にあるかもしれないもっと素晴らしい経験でも、

愛に包まれた感覚が永遠に続くことでもない。

人はドラマが大好き。人の人生はある意味とてもドラマティックで、山あり谷あり。時にはとてもエキサイティグ。感動も沢山ある。ここには全く問題はなく、見かけ上このように人生を経験出来るのは、人間のもった素晴らしい脳の働きのおかげ?:)

ただ、さとりはエキサイティングとは全く違う。とってもナチュラルで完全なリラクゼーション。

すべてが愛

ぜーんぶ愛。

ひとは、普通、愛を愛情、感情だと思う。そして、私たちはそう学んだし、疑うこともなく、そう信じている。そして、怒り、悲しみとかは、愛じゃないと嫌う。

愛情はとても美しい感情だし、幸せな感覚もわく、みんなが好きなこと。

でも、愛情は、感情。涌いては消えていくもの。実は、継続的でいではないこと。

でも、すべてはきえない。世界中が求めていることは、永遠。ほんの短い間の感情を何回も経験することを、本当はみんな求めていない。

ただ、それしか知らないから、そこに愛を求めている。そして、失わないように、一生懸命だったりする。

みんなが求めている愛は、すべて、すべてだから、誰のものにもならないけど、

もうすでにあるぜんぶ♥︎