人々にとっては究極の現実

人は、自分という存在が現れた瞬間から、自分と世界が離れているように感じる。

普通はそんなのたり前で、自分は世界で行動し,自分の選択でいろいろ決めているように感じる。

ただ、この境、自分と世界が離れている感覚が、不満足の感覚の原因であり、

その不満足な感覚をごまかす為に、次の瞬間に気づいていなくてもある居心地の悪さ

満足していない感覚をごまかすのに必要な何かを手に入れようと、次の瞬間に向か、

わせる同気になっていることを殆どの人は知らない。

そして、殆どの人は、その手に入れた瞬間に感じる幸福感、満足感を「幸せ」と呼ぶ。

ただ、これは、「幸せ」ではなく、その瞬間、涌いてくる満足感によって、

普段、無意識に感じている不満足感が隠れるのである。

つまり、何かでごまかそうとしている時点で、もう不満足がそこにある。

ということに殆どの人は、気づいていない。

ただ、何時も言うように、良い悪いではなく、これが分離の生み出すメカニズムなのです。

では、なぜ不満足がつねにあるか。

収縮した感覚があり、その時点で、完全ではない感覚を感じているから。

そして、起きていることが自分に向かっているように感じる。

それは、自分にとって好ましい出来事でなければ、それは苦しみとして捉えられるから。

だから、何時もコントロールのきかない、自分の外側の世界で何が起きるかに

どこかで、怯えている。それは、いつか苦しみが自分に起きるのが怖いし、

避けたいから。怯えていなくても、どこかで防衛を張っている。それは、つねに完全でないから。

何時も、いつ何が起こるか分からない、影響を受ける現実に生きているから。

これが、人間が生きる現実であり、人間がそれをどう感じているか。

だから、重みがあり、深刻さがあり、どこか足りなさがある。

でも、本当は、人間が生きる現実は、夢のような幻想的な世界であり、

もう一つのナチュラルな現実が存在するという可能性。

そこには、不満足の原因の分離、距離がない。

つまり、一番大切な存在、全てを経験している中心、

幸せを求め続ける独立した存在は、元々存在していないということ。。。

それは、怖いことではなく、本当は、ナチュラルなこと。

だって、もともと無いのだから。特別ではないの。

ただ、慣れ親しんだ自分が、小さなこどものように、何かにつかまっていたいだけ。

慣れ親しんだものに囲まれていたいだけ。。。。

しかし!

まさに究極でありながら、沢山の表面的人々が気づきだしている現実。

そして、みんなが唯一求めている愛の現実。

ミラクルだね☺️♥️

so much love from love

2 thoughts on “人々にとっては究極の現実

  1. れいこ

    いつもどうもありがとう!
    いつも書いてくれるたびに、染み込んでいますっ✨
    「距離がない」も、このあいだのサットサンの後、ハッ!とわかりました。
    今日の文からもよく伝わります。
    「見かけだけなんだな。ないんだ!」って
    どうもありがとう♡

    9月のサットサンは、娘の学校行事で、参加できません。残念で〜す。
    また機会があったら嬉しいです。

    Reply

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