深刻さ

全ては、完全なライフの表現。そして起きていること以外はまったく存在しない。

しかし、全体ではなく、個人が中心になり、’わたしの人生’ に変わったとき、夢の現実だけが現実になったとき、全てがとてもシリアスになる。

そして、全てに重みと、苦しみ、悩み、いろいろなものがのしかかってくる。

でも、全てが単なる一つの動きで、普段の現実がまさに夢のように、実際は起きていないことを自分以外の何かがみたとき、この深刻さは、完全に姿を消す。

そして、あるのは、とても普通で、完全な今までとかわらないが、素晴らしすぎる裸のライフ。

欲望

人は、欲望を押し殺そうとしたり、持たないようにしたり、欲望はいけないもの?と思ったりすることがある。。。

でも、欲望があれば、それがそこにあるということ。とても、シンプル!

そこで、この欲望は良いとか悪いとか判断しているのが、大人の考え。大人のふりしたわたし。

でも、そのわたしって誰?

じつは、その 判断するわたし も勝手に現れているのだけど、それがとってもリアルに自分に感じる。

でも、本当はぜーんぶ、ぜーんぶ、涌いては消える ライフの表現。とてもシンプル。

責任

人は沢山の責任を抱えて生きています。

でも、本当の本当のところは、責任はありません。。。。

実際は、自分の行動も、他人の行動も、ぜーんぶ、一つ、全体のうごき。

貴方と私という境のない、一つだけがあるから。

これをみたとき、責任 という言葉は、意味をなしません。

そして、深いリラクゼーションがあらわれるかも。。。

エゴ

エゴについて良く勘違いすることがある。

それは、エゴは悪いことということとか、エゴをなくす努力をするとか。

でも、エゴもライフの完全な表現。

動物は、他の動物の餌をとっても、エゴ的行動だといちいち認識していない。だから何も攻めないし、苦しみがない。

人間がエゴは悪いことと、ライフにクレームをつけているということ。素晴らしい人間のエゴ?笑

つまりこれも完全な表現ではあるが。。。

意味は単なる後付け。。。。

起きていることは全てニュートラル!

完全な自由

”私”がすべてをコントロールすることではない。

全てをコントロールしようとすることは、かなりのエネルギー、緊張、努力、プレッシャーが伴うかもしれない。

これは、完全に自由とは正反対。

そして、状況、起きていることを変えることでもない。もう起きてしまっていることはかえられない。

では、どこに完全な自由があるのだろう?

それは、もう起きていることすべて。

誰にも何も起きていない、これが完全な自由。単に起きていることがあるだけ。

起きていることに、抵抗し、文句を付ける存在、’わたし’は幻想。

’私に起きている’は、単なる後ずけ。小さな私の思い込み。(実際は誰の思い込みでもないけど。。。)

だから、完全な自由はいちばん自然なこと。。。

いつもどこでもつねにピュアなライフだけがあるだけ。

真実って。。。

コンセプトの中に真実はひとつもない。

それは、起きていることとまったく関係ない、レーブル だから。。。

そして、真実という言葉さえ、作りだされたコンセプト。

あるのは、起きていることだけ。

そして、それが全て。

知るひつようのあること、知ることの出来ることは、もともとないというシンプルさ!

それが、ライフ。

Mailのやりとりより

A : 他人のことになると、「イルージョンなのに・・・」て思えても、自分のことになると、必死になってたりして、少し経ってから、笑えます。

菜穂 そうですね。。。笑
人々の生きるコンセプトのある現実はついついシリアスになってしまうことが多いですね。
でも、それが良いことでも悪いことでもないのです。全ては、完璧に起きていますよー。問題はどこにも無いのです!
起きていることしか、起きえないのです。
そして、同時に何も起きていないのです。
ライフは永遠の謎なのです。。。。

ライフがギフト

すべてがギフト。

身体の感覚、思考、音、見ること、匂い、味。。。

誰も一度も自分で何もしていない。

この世に現れているものすべてはいつも完璧におきている。

隔たりがない、すべてがあるだけ。

個人は元々、個人のものではなく、ライフが個人のふりをしているだけ。

すべてはライフ。すべてがギフト。