ラメーシュバルセカールの教えの基本に、
「There is no doer」「行為者はいない。」
と言う言葉がある。
まさに、「解放」は、行為者の終わり。
そんな中心はどこにもない。
ただ、行為者がいないのと、表面的行動は全く関係ない。
そして、自分が行為者だと思っている存在は、つねにではないが、
いろいろなことで苦しむみ、様々な問題を抱えている。
自分がやっているために、間違えれば、後悔し、相手が間違えれば、相手を攻める。
将来に対する不安や、全てに対する責任も 自分でどうにかしないと行けないとおいう、
自分が行為者だと言うところからくる。
そこから、表面的に 深刻さ、争いや、精神的病気、いろいろなことが引き起こされる。
そして、この深刻さ、沢山問題を抱えた部分だけが、疑い用も無い現実になっていく。
行為者はどこにも居ない。だから、本当は苦しんでいる存在もないけど、
表面的には、そこが現実として捉えられる。
行為者の終わりは、無条件の愛そのものだけがのこる。
あるのは、すでに起きている全てだけ。
so much love from love
こんにちは(^-^)
質問なのですが、本当は行為者なんていないのだとしたら、なぜ「自分が行為者」という思いが出てくるのでしょうか?
菜穂さんのブログを拝見していると、「私」は、百害あって一利なしに思えます。何も問題ないところに、なぜわざわざ不自然な苦しみの元を作る?と不思議です。しかも、こういうお話を聞いても、それが消えないなんて。
「私」があった方が都合がいいこととか、あるんでしょうか?