「私」が居なくなるとは、全体性にそ偏見がは溶け込み、そこには“愛する者がいないので、愛がなされているとは言えないのでは、
また、すべてを愛したい、愛するがゆえに、偏った嗜好性を持てない、それは、何者にも、何物にも成れないので、何もどこにも“行い”が出来ない。
すべてを平等に偏らず同時に愛するがゆえに、その愛する者は、何かには、限定された性質には成れない。成ってしまったら、それは現れているものたちと同じ個性を有する者に成ってしまう。
すべてを愛するがゆえに、自分という概念は存在出来ない。それは「愛する者」が「愛」自体に成ったが、戻ったが、それは何も譬えられる性質が無いこと、偏れない自分に成って行くこと。
「愛」に成る=「愛」などというものでもない。何も無い。という事実があるだけ。
我々は、気づきの数々は、愛の中になんかにはいない。それはこちら側の都合の良すぎる解釈に過ぎないと思います。
また、すべてを愛したい、愛するがゆえに、偏った嗜好性を持てない、それは、何者にも、何物にも成れないので、何もどこにも“行い”が出来ない。
すべてを平等に偏らず同時に愛するがゆえに、その愛する者は、何かには、限定された性質には成れない。成ってしまったら、それは現れているものたちと同じ個性を有する者に成ってしまう。
すべてを愛するがゆえに、自分という概念は存在出来ない。それは「愛する者」が「愛」自体に成ったが、戻ったが、それは何も譬えられる性質が無いこと、偏れない自分に成って行くこと。
「愛」に成る=「愛」などというものでもない。何も無い。という事実があるだけ。
我々は、気づきの数々は、愛の中になんかにはいない。それはこちら側の都合の良すぎる解釈に過ぎないと思います。
菜穂
そのとおりですね。実際は、「愛」も言葉であり、ある一つの表現だけで、あるのは、一つの何も
無い空間が全てとして現れているだけです。それだけしかありません。
そして、言葉は二元のものです。どんな言葉を使っても、あることをさしているポインターでしか
ありません。そこに、本当の意味は無いですよ。
ただ、ここで言っている愛は、無条件であり永遠です。それは、個人が居なくなると自然と明らか
になることです。
しかし、この愛を知り得る人は誰も存在しません。それしかないですから。。。
いろいろな動画を見させていただいてます。^ ^
ありがとうございます。
質問をここに書いてよいのか、ちょっとわかりませんでしたが、英語がよくわからないのでσ(^_^;) 違っていたら、スルーしてください。m(_ _)m
菜穂さんが、辛い経験をされている方の質問に『その感情、感覚の中に自由がある。』とおっしゃっていましたが、そこがよくわかりませんでした。どういうことなのか、もう少しご説明をお願いできますか? あともう一つ、『すでに全ては完璧』とおっしゃいますが、今苦しさを感じている個人としては、これが完璧でこれ以上変えられない、と言われると、この苦しみを今私が感じることが全体としては完璧なことで変えられない…ということなのでしょうか?
お時間がありましたら、ブログの中ででもちょこっとお答えいただけたら嬉しいです。
非二元性のメッセージを聞いて寝て朝起きたら、目覚めていました。あまりにあっさりしていてシンプルで拍子抜けです。日常は、何も表面上はかわらないでもガラリと変わる。でも、シンプルすぎる故菜穂さんの本を読んでみましたが、言葉の表現の限界を感じました。起きることしか起きない、分離・所有のないということは、苦しみは無いですね。
菜穂さん、初めまして。
友人に菜穂さんのことを聞いて知り、youtubeで動画も見させていただきました。
今度は、いつか北海道にも来ていただけると嬉しいです!
お会いして、話を聞きたい、そういう感覚に少しでも直に触れてみたいなと思います。
質問なのですが、動画で菜穂さんが「全てがない、個人も経験者もいない」ということに気付いたとき「ハッ」としたという表現がありましたが、それは誰かが「ハッ」と気付いたのでしょうか?
菜穂さんは、誰もいないとおっしゃいましたが、それに気付いた、「ハッ」としたそれはなんなのでしょう?
全てが愛であるという、「愛」とはなんなのでしょう?
私たちが思考で、感情で捉えている愛とは違うものなんだろうなということは感覚でわかるのですが、でも愛とはなにかを考えようとすると行き詰ってしまいます。
それはやはり、考えることで表現されるものとはまったく違うものなのでしょうか?
お時間がありましたら、言葉でできる範囲でお答えいただければ嬉しいです。
よろしくお願いいたします。