Monthly Archives: March 2015

避けられない

起きていることを避けることはできない。それは、誰もがしっていること。。。

でも、苦しいと一生懸命、逃げようとしたり、何かを変えようとする。

でも、それって本当は全然起きていない、夢の世界のこと。実際は、変える必要のあることは、ひとつもない。いつも完全。

だって、全部があなたであり、全部があなたでないから。

本当は、起きていることを離れて見ている人はどこにも存在しない。。。。どこまでも限りないライフがあるだけ。。。

特別

ライフに特別はない。

見かけの誰も特別でないし、特別な経験も、特別なものもない。。。

全体しかないから、その中の’何か’は独立して特別になれない。。。ぜーんぶ見かけだけだから。

もし、特別があったら、それは夢の中、ストーリーの中だけのこと。。。

そして、ライフ、すべてが特別☆

深刻さ

全ては、完全なライフの表現。そして起きていること以外はまったく存在しない。

しかし、全体ではなく、個人が中心になり、’わたしの人生’ に変わったとき、夢の現実だけが現実になったとき、全てがとてもシリアスになる。

そして、全てに重みと、苦しみ、悩み、いろいろなものがのしかかってくる。

でも、全てが単なる一つの動きで、普段の現実がまさに夢のように、実際は起きていないことを自分以外の何かがみたとき、この深刻さは、完全に姿を消す。

そして、あるのは、とても普通で、完全な今までとかわらないが、素晴らしすぎる裸のライフ。

欲望

人は、欲望を押し殺そうとしたり、持たないようにしたり、欲望はいけないもの?と思ったりすることがある。。。

でも、欲望があれば、それがそこにあるということ。とても、シンプル!

そこで、この欲望は良いとか悪いとか判断しているのが、大人の考え。大人のふりしたわたし。

でも、そのわたしって誰?

じつは、その 判断するわたし も勝手に現れているのだけど、それがとってもリアルに自分に感じる。

でも、本当はぜーんぶ、ぜーんぶ、涌いては消える ライフの表現。とてもシンプル。

責任

人は沢山の責任を抱えて生きています。

でも、本当の本当のところは、責任はありません。。。。

実際は、自分の行動も、他人の行動も、ぜーんぶ、一つ、全体のうごき。

貴方と私という境のない、一つだけがあるから。

これをみたとき、責任 という言葉は、意味をなしません。

そして、深いリラクゼーションがあらわれるかも。。。

エゴ

エゴについて良く勘違いすることがある。

それは、エゴは悪いことということとか、エゴをなくす努力をするとか。

でも、エゴもライフの完全な表現。

動物は、他の動物の餌をとっても、エゴ的行動だといちいち認識していない。だから何も攻めないし、苦しみがない。

人間がエゴは悪いことと、ライフにクレームをつけているということ。素晴らしい人間のエゴ?笑

つまりこれも完全な表現ではあるが。。。

意味は単なる後付け。。。。

起きていることは全てニュートラル!

完全な自由

”私”がすべてをコントロールすることではない。

全てをコントロールしようとすることは、かなりのエネルギー、緊張、努力、プレッシャーが伴うかもしれない。

これは、完全に自由とは正反対。

そして、状況、起きていることを変えることでもない。もう起きてしまっていることはかえられない。

では、どこに完全な自由があるのだろう?

それは、もう起きていることすべて。

誰にも何も起きていない、これが完全な自由。単に起きていることがあるだけ。

起きていることに、抵抗し、文句を付ける存在、’わたし’は幻想。

’私に起きている’は、単なる後ずけ。小さな私の思い込み。(実際は誰の思い込みでもないけど。。。)

だから、完全な自由はいちばん自然なこと。。。

いつもどこでもつねにピュアなライフだけがあるだけ。

真実って。。。

コンセプトの中に真実はひとつもない。

それは、起きていることとまったく関係ない、レーブル だから。。。

そして、真実という言葉さえ、作りだされたコンセプト。

あるのは、起きていることだけ。

そして、それが全て。

知るひつようのあること、知ることの出来ることは、もともとないというシンプルさ!

それが、ライフ。